宇佐市を縦断するように真っ直ぐに伸びたこの道。当時航空隊の滑走路があったのと同じ場所に作られたものです。
長さ1800m、 幅80mの滑走路はここで何基の若者を見送ったのでしょうか?今では市民の生活欠かせない重要な県道として、広く利用されています。
終戦後、一旦はこの滑走路も田んぼに戻されました。その際に滑走路として利用されてきたコンクリートは地元の方が砕き、捨てられたり、埋められたりして戦前の姿へ戻っていったのです。また一部のコンクリート片は、民家の塀として近隣に残されているものもあるのだそうです。
滑走路跡まで行くと、様々な場所で『城井1号掩体壕史跡公園』の案内が書かれた道路標識を見つける事ができるはずです。
ここは広大な宇佐平野。延々と続く田園風景が心を和ませてくれます。そんな平野の中にポツポツと見える、円形の駐車場にしては大きすぎる奇妙な建造物。これが掩体壕と呼ばれる、飛行機の防空壕です。
現在、この地区に10基の掩体壕が残されているそうですが、他の戦争史跡と同じく、そのほとんどは一般の方の所有地となっています。そんな中、一際立派に当時の風貌を残す、この城井1号掩体壕を宇佐市が買い取り、史跡公園として整備したのです。
この城井1号掩体壕こそ、宇佐海軍航空隊のあった証であり、平和の象徴だと言えるでしょう。
城井1号掩体壕の内部は確かに飛行機の形に象られているのが良く分かります。
戦後50年にあたる平成7年3月に宇佐市から史跡の指定を受け、これを受けて平成9年に史跡として整備されたものです。
実は第2次世界大戦の戦争史跡は、沖縄県南風原陸軍病院壕(同県南風原町)に続き、全国でも2番目という非常に貴重な指定なのです。敗戦のあおりからか、戦争の象徴的なものは次から次に排除されていく中、この宇佐の掩体壕が良く残っていた事に感心させられます。
さらに近づくと、中にあるプロペラがやはり目に付きます。
実はこれは国東の海で見つかった実際の零戦のプロペラ。撃墜されたものなのか、今となってはわかりませんが、現在は綺麗に色も塗られ、貴重な史料としてここで保管されています。
さらに下を見ると、実際の零戦の大きさが白塗りされ、プロペラが所定の位置にあることも分かりました。(下写真中央)
訪問者が思った事を綴るノートもここにあります。(下写真右)実はこのノートが一躍全国のニュースに流された事件があったのをご存知ですか?
歌手の一青窈さんがこの地を訪れた際、この感想帳に「たくさんの悲しいできごとが 消えて たくさんの花が咲きますように」と記したのですが、数日後このページが破られているのが見つかったのです。
戦争遺跡という現代でも特別な史跡で起こった心無い事件に、書き込んだご本人もショックを受けたことでしょう。
掩体壕の脇にそっと立てられた鎮魂碑。
周りを囲む様に当時を知る様々な人達の詩や俳句が、並べられています。一つ一つ丁寧に読んでいくと、涙を誘う内容に当時の心境、またはどうにもならない苦しさを知ることが出来ます。
ベンチとして利用されているものは、上記滑走路で利用されていたコンクリート片。(下写真右)隅から隅まで、戦争遺跡で固められたこの地に、何かを感じざるを得ませんでした。