最後に我々が案内されたのは、一般の民家でした。ここは吉松地区にある近藤さんのお宅。現地に着くと、コンクリート塀に痛々しく残る無数の爆撃痕にすぐに気が付きます。
これらは何かの銃弾の跡ではなく、どうやらほとんどが爆弾による炸裂痕らしく、これだけの跡が残っているほどの激しい空襲の中、良くこの塀が残っていたな、と驚きます。
昭和20年、激しくなる米軍の攻撃の中、航空隊のあった重要拠点であるこの宇佐市は、4月と7月、二度に渡り大きな空襲の被害に遭います。この近藤様宅の炸裂痕もその時に被害に遭われたもの。
なぜ今でもこのままにしているのか?不思議に思えますが、この日ここまで案内してくれた教育委員会の井上課長の計らいで、実際に今でもこの家に住む近藤さんにお会いし、お話をお聞きする事ができました。
戦争当時、満州に派遣されていたという近藤さん。宇佐市がこういう状況になっていたというのは、戦後帰国してから初めて知ったのだそうです。
昭和20年7月15日。
折りしも田植えの時期。近藤さんの家も四日市からお手伝いを雇い、田植えに励んでいたそうです。そん中突然訪れる大空襲。
お手伝いに来ていた親戚など10余人を含む多くの人々が逃げ遅れ亡くなられたそうです。近藤さんのお姉さんやお父さんも逃げ遅れて重症。一命は取り留めましたが、一生症状の残る大怪我をされたという話でした。
宇佐海軍航空隊の話をお聞きしてみました。
「この宇佐からも多くの若者が特攻隊として飛び立っていったわけですが…。」
「はい。死んでいった方のことを考えると、複雑です。」
「当時特攻隊というのは、志願された方が参加されていたと聞きましたが、実際はどうだったのでしょうか?」
「本当に国のために命を投げ出して良いと思っていたと思います。実際私も徴兵命令が来るまで、早く戦場へ行きたいと思っていました。そういう時代、そういう教育だったんです。」
戦争当時、近藤さんは満州の鉄道会社にいたそうです。鉄道会社の社員はなかなか徴兵されなかったらしく、早く戦争に行って国のために働きたいと当時は本当に思っていたそうです。
「満州という地域自体、我々には想像もつかないわけですが…」
「もちろんそうでしょう。酷いところでした。満州が酷いのではなく、満州にいた日本人が酷かったのです。満州の方は酷い差別を受けました。給与面はもちろん、全ての待遇においてです…。」
近藤さんはそう言いながら、遠くを見て一瞬言葉を詰まらせました。そしてさらにこう続けたのです。
「今、靖国問題などで間違った方向に戦争が受け入れられようとしていると思うのです。
本当に大事なのは誰を祀るとか、誰が参拝するとかではなく、平和のために何が出来るのかだということです。あの時の日本は間違っていました。
戦争は二度としてはいけません。もう誰にも戦争で命を落としてほしくないのです。
私が出来ることは、戦争で尊い命を落とした方々のご冥福を祈り、二度と同じ過ちを繰り返さないために、我が家の塀を残していく事だと思っています。」
近藤さんはそう言いながら初対面の私の前であるにも関わらず、声をあげながら大粒の涙を流しました。私は相槌を打つ事さえ、恥かしく思ったのです。それだけ近藤さんの貴重なお言葉は胸に響いたのです。
それぞれの正義を振りかざし、殺しあう同じ国の人間達。
宗教を論じながら、隣人を殺しあう外国の人達。
その陰で犠牲になっていく、罪のない子供達。
私は、世界平和を訴えていくほどの力も名前もありませんが、近藤さんが言われたように、もし平和のために我々個人個人に何かが出来るとしたら、それは次の世代に戦争の恐ろしさ、惨さ、悲しさを伝えていく事ではないか?と思いました。
私達が住むこの大分県の中で、これほどまでに戦争の爪跡を見たのは初めてで、改めて戦争を身近で体感し、運良く実際に貴重なお話しを聞きする事ができました。
この聞いた話を次の世代にまた伝える事こそ、私達、戦争の知らない世代が平和のために出来る最高の努力ではないでしょうか?
皆さんも機会があれば、是非宇佐市の各地に行ってみてください。
お子様がいる方は、特に最高の平和学習の場になると思います。
同時に自分も改めて平和に関して考えさせられる事は間違いありません。
ある真夏の晴れ渡った一日。
2006年の終戦記念日は私にとって、忘れられない一日となりました。