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爆撃痕

 こちらも場所は柳ヶ浦。無数の爆撃痕が壁に残されたままです。ここは残されている場所に大きな理由があります。

 写真の看板にはこのように書かれています。
 「昭和20年、柳ヶ浦を中心に大きな空襲がありました。このコンクリート壁にはアメリカの戦闘機の銃弾の跡がたくさん残っています」
 実はこの場所は、柳ヶ浦小学校。その東側の壁なのです。
 朝の通学時間中に突如襲った大空襲は、多くの子供たちの尊い命も奪いました。その弾痕の跡の残る小学校はいまだに当時の姿のまま、柳ヶ浦地区の子供たちに戦争とは何か?を伝えているのです。

 下の写真でも分かるとおり、弾痕の跡は大人の膝下辺りであり、子供たちにとっては体の中心部分にあたります。もちろん今でも利用されている校門も例外ではありません。



柳ヶ浦小学校 柳ヶ浦小学校東側 柳ヶ浦小学校校門

宇佐海軍航空隊の正門跡

 他にもこの柳ヶ浦小学校には様々な史跡が残されています。
 右の写真は、ここから少し離れた宇佐海軍航空隊の正門

 戦後、埋もれていたこの正門を、教育委員会や有志の方の尽力で、ここまで運んできたのだそうです。平和学習として利用してもらいたいという思いなのでしょう。
 ちなみに、正門のもう片方は、いまだにどこかの土の下に埋もれているのだとか…。

 下の写真の中央と右は、小学校に戦前からあった石碑の跡。大きな石碑が半分吹き飛ぶ程の激しい爆撃であった事が分かります。  



宇佐海軍航空隊の正門跡 半分になった石碑 半分になった石碑

生き残り門

 少し離れた場所に移動し、こちらは浄土真宗 蓮光寺。ここの門は別名・生き残り門と呼ばれています。

 「生き残りの門。安政二年の建立。昭和二十年四月二十一日午前八時二十五分、B二十九の空襲により、本堂・庫裡全壊する。この門のみ奇跡的に倒壊せず、寺の面目を保つ。この日近くだけで死者十名、全半壊二十戸」

 門の傍にはこう書かれた立て看板がありました。

 また下の左の写真で分かるとおり、弾痕が真っ直ぐ、手前から奥にかけて伸びています。これも生き残り門の柱に今なおクッキリと残されています。



弾痕跡が真っ直ぐ伸びています   生き残り門