■Main Menu■



■位置情報■


広域地図表示



 ここからは、岡城の歴史について、詳しく解説いたします。
 説明文と掲載写真のイメージが合わないものもあるかもしれませんが、写真にマウスポイントを合わせれば、その写真がどこの写真なのか分かるようにしていますので、ご注意下さい。


東門跡の大きな石段 岡城が最初に築城されたのは、1185年(文治元年)の話。
 平安時代末期から現在の豊後大野市緒方町を中心に活躍していた緒方惟栄(おがたこれよし)という武士がいました。平家物語にも登場する程の人物です。

 惟栄は平氏の都落ちと共に一族を率いて源氏方に寝返り、平氏の九州上陸を阻止するなどの働きを見せました。しかし時の権力者・源頼朝は実弟である義経と仲違いし、これを追い込みます。惟栄はこの時、義経を迎えようと考え、お城を築城したのです。
 これが現在の岡城の起源。

西の丸御殿跡の石段 しかし結局義経が九州へ来る事はありませんでした。惟栄は現在の兵庫県で出航しようとしたところを捕えられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘へ流罪となるのです。

 南北朝時代の1343年(建武元年)南朝方に属した豊後国守護・大友氏の一族である志賀貞朝が、後醍醐天皇の命を受け、岡城の大掛かりな改修を敢行。北朝と戦ったとされています。しかし一説には志賀氏の入城は1369年(応安二年)以後とも言われています。 志賀氏の居住は以後、城へ移り、岡城と名付けられたのもこの時だそうです。

 岡城は牛が臥せった姿にも見えるので、『臥牛城』と呼ばれる場合もあります。

西の丸御殿跡 1586年(天正14年)、岡城の歴史に残る最大の事件が起こります。

 「豊薩戦争」と呼ばれる、島津氏の豊後攻勢が岡城にも迫りました。当時城主だったのは若干18歳の志賀親次(ちかよし)。僅か1,000人という兵士達と共に、島津三万の大軍に挑みました。 多くの豊後の城が落とされる中、志賀氏は大軍を相手に奮戦し、ついにこれを撃退したのです。この働きは豊臣秀吉の耳にも入り、志賀氏には感状が贈られました。



近戸門跡 城の北を稲葉川、南に白滝川を天然の濠として、その二つの川に挟まれた標高325mの天然の要塞。これ以後、大きな戦火に巻き込まれる事はありませんでしたが、世に難攻不落の日本三険城の最上とも言われています。

 現在でも岡城から見る絶景は観光客の目を楽しませてくれます。特に本丸跡から望む「地獄谷」という断崖絶壁は立っているだけでも息を飲む光景です。

 しかし志賀氏の繁栄も長くは続かず、1593年(文禄二年)、大友氏が領地を没収されると、志賀氏も岡城を去ることになりました。

家老屋敷跡 翌1594年(文禄三年)、播磨国三木城から中川秀成(ひでしげ)が総勢四千人余りで入城。大規模な修築を開始し、急ぎ近世城郭の形を整え、城下の町割などを行いました。現在の岡城の姿はこの時行われた大改修で施されたものです。

 本丸は1597年(慶長元年)、西の丸御殿は1663年(寛文三年)に完成さ、以後、明治維新まで中川氏(岡藩7万石)の居城となったのです。




家老屋敷跡と城代屋敷跡 1871年、明治維新ごの廃藩置県によって、十四代・277年続いた中川氏も東京へ移住。

 1874年(明治七年)、大分県による入札・払い下げで、岡城の全ては取り壊されました。以降荒廃は進み、岡城は荒れ果てて生きます。少年時代を竹田市で過ごした、滝廉太郎はその荒れ果てた岡城でよく遊び、その頃の印象を「荒城の月」として作曲しました。

 1936年(昭和11年)12月16日、国指定史跡 岡城址に指定され、以降周辺は整備が進められています。