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市役所側から見た府内城 大分県民なら知らない人はまずいない、「豊後府内城」。
 場所が大分市の中心部にあるということはもちろんですが、今でも『大分文化会館』『城址公園』として、市民・県民に広く利用されているからです。

 ところが県民でも良く知らない部分があります。
 今回は知ればもっと楽しめる府内城の色んな見方を紹介していきたいと思います。

 まずは左の写真。雑誌やTVでも良く観る最もメジャーなアングルです。手前に見えるのは二層櫓と呼ばれる建物。


大分市大字大分一番地の石碑 1872年(明治5年)廃藩置県後の大分県は、この府内城の城内に初の大分県庁が置かれたのです。意外と知られていない事実ですね。
 その影響で旧住所ならばこの地は「大分市大字大分一番地」という住所でした。府内城の入り口、国道197号線沿いにはこれを示す石碑も建てられています。これも歩いていかないと分かりませんし、前を通っても見落とす人が多いでしょう。

 では大分市の歴史の中で、この府内城がどう関わってきたのか?少し勉強してみましょう。

戦国時代、この地を収めていたのはあの大友氏でした。その政治の拠点は現在の大分駅の東側から金池・古国府にかけての近辺。しかし豊臣秀吉が実権を握ると次第に大友氏の権力は衰え、当時豊後守護大名だった大友義統が秀吉により改易されると、豊後は朝鮮の役で戦功のあった諸大名に分け与えられる事になったのです。

府内城国道側入り口 1597年(慶長2年)、豊臣秀吉の家臣で石田三成の妹婿である福原直高という人物が、12万石を得て臼杵藩より転封。当時大友氏が政治の中心にしていた居館では守備が心もとないと、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始しました。

 築城開始から三年後の1599年(慶長4年)4月、城は完成し、『荷揚城』と名付けられました。
 ちなみにこの福原直高という人物、豊臣秀吉の死後、徳川家康により6万石に減封のされ、再び臼杵に転封されています。荷揚城完成から僅か一ヶ月という短期間しかいなかった事になります。



府内城国道側入り口 そもそも現在荷揚町と呼ばれているこの地が、「荷揚」と呼ばれるようになったのは、この頃の話です。ではなぜ「荷揚」という城名(地名)が付けられたのでしょうか?
 この地は大友氏の時代に船の荷役を行っていた場所で、その事から荷物を降ろすという意味で「荷落」という地名だったといいます。しかし「落ちる」という意味では城としては縁起が悪いと、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、お城の名前を荷揚城にしたらしいのです。

 最終的な完成形は、1602年〜1607年に竹中重利が4層の天守閣から外堀までを完成させた時。荷揚城の全盛期と言っても良いでしょう。

大分市 府内城 荷揚城 1743年(寛保3年)、城内で大火事が発生し、天守を含む大部分の建造物が焼失するという事故が起きました。以後現在まで天守が再建される事ありません。
 また1919年(大正8年)、県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられ、1945年(昭和20年)、空襲により僅かに残された櫓数棟が焼失してしまいました。

 こんな悲劇が相次ぐ中、1963年(昭和38年)、大分県の史跡に指定され、1965年(昭和40年)には東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門が復元されました。

大分市 府内城 荷揚城 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋が復元されたのは1996年(平成8年)。ここまで復元されたのですから、是非天守閣を…という声が上がるのも理解できますね。

 府内城の東側にある城址公園は、春になると桜が咲き乱れ、見事な景色となって府内城を彩ります。花見の時期には大分市を代表する花見のメッカとなり市民を楽しませてくれます。

 では次のページでいよいよ城内を案内しましょう。

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