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 昭和の町オフィシャルサイト

 駄菓子屋夢の博物館公式サイト

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 豊後高田市と言えば、まずはこの「昭和の町」が浮かびます。

 これだけのイメージを植えつけるのに、傍目から見れば時間は掛からなかったように思えます。それだけ昭和の町というブランドが豊後高田市に定着しているのでしょう。
 しかしそこには並々ならぬ町興しへの情熱と、少しずつだけど確実に歩み続けた歴史、膨大な時間と多くの方の協力がありました。知らなくても充分に楽しめる昭和の町ですが、知れば昭和の町の見方がまた少し変わってくるはずです。

 何が成功し、どう他の商店街と違うのか?あなたも地元の商店街について、考える事ができることでしょう。

豊後高田市 昭和の町 豊後高田市は国東半島の各地と中津・宇佐を結ぶ重要な町。これは昭和の時代だけではなく、江戸時代やそれ以前もそうでした。そのお陰で町は活気付き、国東半島最大の町として長い間潤っていたと言います。
 そんな豊後高田市の最初の不幸は、昭和20年代のJR日豊線の整備事業。当時の国鉄(現JR)は豊後高田市に日豊線を通しませんでした。これにより目を見張るように町は衰退していきます。昭和29年には30,588人いた人口が徐々に減少し始め、平成に入ると全国の市で下から5番目の人口という不名誉な順位をもらうことになったのです。
 高齢化だけが進み、誰が見ても町には老人しかいない状況。商店街には閑古鳥が鳴き始め、誰が言い始めたのか「犬と猫しか歩かない商店街」と言われ始めたのです。

 こんな状況を打破しようと商店街の人々・商工会議所・市役所から有志が立ち上がったのです。

昭和の町 商店街 とは言っても、ここまではどこにでもある町興しの形。気持ちだけで終わる事は良くある話です。

 平成4年、具体的な町興しの策を模索すべく、未来構想となるビジョンを大手広告代理店の提案の元、検討しましたが、市民も商店も誰も協力してくれなかったそうです。なぜならそこに個性がなく、成功するとは思えなかったからです。

 そこで有志一同は、中心市街地や既存商店街の歴史を徹底的に調査・研究し、町の個性を発掘しようと考えました。豊後高田市という町の個性を浮かび上がらせるための作業。後に「豊後高田市街地ストリート・ストーリー」と呼ばれるこの作業は、実は膨大な作業となり、調査開始から実に5年という長い歳月をかけることになるのです。

ただの自販機も… 町の歴史に埋もれ忘れ去られた町の個性をあぶりだし、浮かびあがらせる。その過程で、商店街の町並みでなにか観光化ができないかと、話が持ちあがりました。 商店街の観光化という観点で検討した場合、考えられるのは江戸時代の城下町、明治・大正の建物を利用するなどといった方法。 しかしそれは既に大々的にPRしている自治体・商店街も少なくなく、それらと競っても勝ち目はないと考えたのです。そんな時に気が付いたのは、古い商店街の、変わらないその姿でした。

 商店街が元気だった最後の時代、高度経済成長期以前の昭和30年代の町並みが生かせないか?
 唯一の、さびれきったからこそ残った伝統的な商店街が遺産として生かせないか?

 こうして昭和の町のビジョンが生まれたのです。


昭和の町 案内板 いよいよ具体的に、商店街を昭和の町化する作業が検討されていき、総延長500m、全店舗100軒の商店街を1年数軒ずつ段階的に再生していこうという方法が取られました。

 また観光の拠点となるべき中心施設として、商店街に隣接して残っていた、昭和10年前後に建てられた旧高田農業倉庫を利用しようと考えました。これが現在の「昭和ロマン蔵」と変わっていきます。
 そしてこの昭和ロマン蔵の目玉施設として、昭和を感じさせるグリコのおまけや鉄腕アトムのおもちゃ、平凡パンチに明星などの雑誌類を展示したい…と考え、白羽の矢を立てたのが、福岡市の小宮裕宣さんでした。

駄菓子屋の夢博物館 福岡市で駄菓子屋を営みながら、25年間かけて20万点に及ぶ昭和グッズを集めてきた小宮さんに、スタッフの皆さんが初めて会ったのは、全国リサーチをしていた時だそうです。
 昭和の町のスタッフは、何と展示品だけでなく小宮さん自身にも豊後高田に住んでもらう事を提案。その情熱に心を動かされた小宮さんは、今では確かに豊後高田市に住んでいるそうです。

 当時小宮さんが承諾してくれるまでに、スタッフの方が何度も何度も訪問し、お願いしていたため、スタッフの間ではこれを『福岡詣で』『小宮詣で』などと呼んでいたそうです。


商店街のディスプレイ スタート当初、昭和の店として登録していたのは僅か9軒の店舗でした。看板や建具を改修し、各店舗が昔から使ってきたものなどを『一店一宝』として登録・展示しました。 手作りのアイスキャンディーやコロッケなどを『一店一品』として売り出しました。しかしそれだけでもまだだ足りません。
 旅行会社を招待し、バス会社などに何度も通い、街並みを見てもらい、好感触を得た状態で、満を持して平成14年10月、昭和の町の核施設“昭和ロマン蔵―駄菓子屋の夢博物館”を開館させたのです。

 観光バスは多くの観光客を運び、多くの観光客は話題を振りまき、噂はマスコミを動かし、報道はさらに観光客を連れてきてくれる様になったのです。

 昭和の店として登録している店舗は、2006年現在38店舗。
 観光客は年間27万人と言われています。

絶景の展望台 商店街を蘇らせたい。
 ほんの数人の人物が考えた小さな気持ちが、大きなうねりとなり、ついには豊後高田市を、町興しのモデルとして全国の市町村・商店街から勉強に来るまでの町に変えたのです。

 高度経済成長期だった昭和30年代。隣近所は助けたり助けられたり、おかずをつくったら近所におすそ分けしてくれる時代でした。
豊後高田市の昭和の町を歩いていると、通り過ぎる名前も知らない観光客、あった事もない地元商店街の方が、軽く挨拶してくれます。ただそれだけですが、その「ただそれだけ」を失くしてしまった現代の日本人に、それを思い出させてくれる街並み。それが豊後高田市の昭和の町です。