旧邸と記念館の間には、緑がいっぱいの中庭があります。
我々がお邪魔したのは真夏の日差しが厳しい、午後。そんな中でもこんな緑溢れる中では、影もたくさんあり、観光客の皆さんも涼しそうに一休みしていました。
大きな歴史の転換期に、幅広い知識とすばらしい行動力で、新しい日本文化の道を開いた福沢諭吉。諭吉は1900年(明治33年)、全29条からなる「修身要領」をまとめさせました。
その中心に独立自尊を据えています。
独立自尊の人とは、「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人としてその品位をはずかしめない者」と説いています。
他にも多くの有名な著書がありますが、それらの多くはここにある福澤諭吉記念館に置かれています。
記念館の内部は、外観よりも遥かに広く感じます。
中に余計なものがなく、展示品は壁側に並べられているからでしょう。お陰でゆったりした空間を感じる事ができます。
入り口から入ってすぐ左に記念館の事務所があります。ここで入館料を支払って、見学する事が出来ます。一階と二階に分かれていますので、まずは一階から見てみましょう。
まず最初に迎えてくれる一万円札が二枚。なぜ一万円札を展示しているのか?一万円の顔と言えば福澤諭吉。人によっては一万円札三枚を表現するのに、「諭吉三枚」なんて表現を使う人もいる程、今では福澤諭吉=一万円というイメージは国民に染み渡っています。
でもなぜこの二枚だけが展示されているのでしょう?
もう皆さんお解かりでしょう。実はこの一万円札こそ、記番号1号券という世の中に二枚とない貴重な一品。
でもなぜ二枚あるのでしょうか?偽造防止のため、紙幣のデザインが変わった際、この一万円札もホログラムが入るようにデザイン変更されました。写真の奥の一万円札は新札の記番号1号券ですね。
ちなみに、この福澤諭吉の一万円札の記番号2号券は慶応義塾の三田キャンパスに置かれているそうです。
福澤諭吉は20代後半から、海外を歩き、西洋の思想・勉学を研究します。
多くの偉人達は故郷を離れ、中央で名を馳せる中、福澤諭吉は生涯を通して、中津に良く戻っています。郷土を愛していたというこんなエピソードを紹介します。
明治27年、耶馬渓の競秀峰が売却される事を知った諭吉は、これを買収し、郷土の自然を守ったそうです。
彼の門下生として、有名になった中津藩出身の教育者・実業家は数多く存在します。
二階に上がってもまだまだ多くの資料が並べられています。
福沢諭吉の著作物は学問系のものから思想系のものまで多岐に渡ります。その中でも特に有名で現在も語り継がれる著作物が明治五年に発刊されました。福澤諭吉の代表作『學問ノスヽメ』の初版です。
三年後には全14編が刊行され、歴史的な大ベストセラーですよね。
その後政治の世界にも足を踏み入れますが、政変により門下生共々官界から追放。それでも明治23年には慶応義塾に大学部を設け、これが日本で初めての私立大学、後の慶応大学になるんですね。
明治34年、二回目の脳出血により2/3に永眠した福澤諭吉。
彼の残した功績は計り知れず、現在でも中学生レベルなら、まずその名前を知らない日本人はいないでしょう。
記念館にはまだまだ、「へぇ〜」と驚くような、書籍や展示品、そして知られざる彼の姿が残されています。近くに行った際には、是非行ってみて下さい。
新しい一万円札像が見えてくるかもしれませんよ。