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杵築城 杵築市の象徴と言えばやはりこの杵築城。国道213号線を走るだけでもその勇壮な姿を高台に見ることが出来、思わず惹かれてしまう人も少なくないでしょう。
 綺麗な豊後水道を見下ろす様に小高い丘の上でどっしりと構えるお城。それはつまりこの城が、海と山に囲まれた要害である事を意味し、実際に幾度となく戦火から主やこの街を守ってきました。

 大分県にもいくつかあったお城の中でも、この杵築城の歴史は古く、築城は1393年(明徳4年)と言われています。一説には鎌倉時代ではないか?という説が存在するほどです。
 その杵築城へのアクセス方法は大きく2種類。国道側から行くコースと、武家屋敷側から行くコース。駐車場があり、他にも観光としての見所が多い武家屋敷側からのコースを選ぶのが無難です。 今回は杵築城の城内へ入り、今は歴史資料館となっている城内を見学しながら、杵築市の歴史について学んでみます。

石造物群
 杵築城の周辺は現在城山公園として、観光客はもちろん地元の皆さんの憩いの場として広く利用されています。
 駐車場に車を停めると、そこから天守閣までの道のり3〜5分の間にもたくさんの石造物群を見ることが出来ます。これらに関してはまた別の機会にお話しするとしましょう。

 滑らかな上り坂を上りきると、ようやく立派な天守が見えてきます。その向こうには杵築市を見下ろす事ができる絶景が待っていました。

杵築市を一望 天守の前は少し開けた広場。そこには四畳半ほどの展望台が用意され、国道213号線から豊後水道まで、素晴らしい風景を見ることができます。

 海と断崖に囲まれた要害堅固なこの地に、杵築城を築城したのは大友氏一族の木付氏四代頼直。1593年、大友義統が秀吉によって改易されると、大友氏の失態を嘆いた木付氏十七代統直は自害。十六代鎮直もこれに続き、木付氏十七代、340年余の歴史の幕は閉じます。
 以降も何人かの主がここに来ましたが、木付氏が最も長く印象を残す事になります。


城址案内図 杵築市を一望 展望台

杵築城 外観 現在の杵築城の天守は昭和45年に建てられた復興城です。縄張図などの限られた資料から当時を思い起こさせる立派なお城が建造されています。 三層の天守閣ですが、実際に何層あったのか残されているものはありません。
 実際の天守閣は1608年(慶長3年)に、焼失してしまいました。その原因は何と落雷。以降、現在の形に復興されるまで一度も復元される事はありませんでした。 木付氏が退く1593年から僅か15年程度しか経っていないのを考えると、何かしらの因縁めいたものさえ感じます。

 現在の天守内部には、歴代藩主ゆかりの品々や杵築市の歴史について勉強する事ができる数々の貴重な資料が展示されています。
 
入館料
 一般   210円
 小中学生 100円


杵築城城内 杵築城に展示されてある貴重な資料や品々。もちろん江戸時代のものが多いのだろうと思いきや、意外と明治・大正・昭和などの近世の物も多く展示されていました。

 さながら博物館もビックリの展示品の数々に思わず目を奪われます。そんな展示品もやはり杵築市ゆかりのもの、または杵築市出身の賢者の皆さんが歴史に名を刻んだ証拠品の様な類が目を引き、改めてこの地が歴史上重要な人物を何人も輩出した名誉と歴史のある街なんだなぁと思い知らされました。


杵築城城内 寄贈された籠 杵築城城内

最上階の絶景 最上階まで登りきると、最初の展望台とは明らかに違う絶景が待っていました。ここは360度杵築市が見渡せる大パノラマ。 間違いなく市内No1の高さでしょう。過去と現在が見事に調和された城下町を頭上から見下ろす事ができます。

 さて杵築城が歴史にその名前を残すのは、1586年(天正14年)。九州統一を目指していた薩摩の島津氏が豊後の諸城を落とした勢いでこの木付城へと攻め上ってきます。 木付氏十六代鎮直はこれに対し、篭城で奮戦。結果、島津軍三万の大軍は退却を余儀なくされました。自然が生んだ要塞・木付城はこうして勇名を馳せたのです。

杵築城 難攻不落の城として名を高め、「勝山城」とも呼ばれる杵築市のシンボル『杵築城』。国道から見えるその姿は、地元杵築市民のみならず、心を躍らせます。
 杵築市に行くならまずは抑えておきたいポイントの一つですね。

 最後に一つだけ…。なぜ木付城が杵築城になったのか?勘の良い方なら必ず疑問を持たれるでしょう。

 そもそも城主だった木付氏の名を取り、「木付城」だったのですが、1712(正徳2年)幕府からの朱印状に誤って「杵築」と記されたことから以後「杵築城」と称されるようになったそうです。木付氏はガックリなんでしょうがw杵築市の命名者はある意味、徳川幕府だと言う事にもなりますよね。