では改めて、人間魚雷「回天」について少しおさらいしておきましょう。
太平洋戦争末期の昭和19年、戦局が悪化し、日本軍はこの現状を打破すべく自爆攻撃を実行しました。その自爆攻撃の一つが航空隊による日の丸特攻隊ですね。
さらに戦局を一変させるべく、日本軍が新しく開発した兵器こそ、この回天です。なんと、魚雷(戦艦から発射する海中爆弾)を人間が一人搭乗出来るように改造し、敵艦に間違いなく体当たりできるようにする戦法でした。
昭和19年9月1日から、山口県光市・山口県平生市が順次開隊し、昭和20年4月25日、日出町大神に第三の回天基地として、「大神突撃隊」が結成されるのです。
司令官であった山田大佐を筆頭に、その数、実に2,000名の若者がここに配置されました。
この地にあった回天の大神基地では、実際に訓練が行われたわけですが、戦局が最悪の状況となっていた昭和20年8月2日、隊員8名が回天8基と共に高知県宿毛湾麦ヶ浦へ出撃したのです。
これがここ大神基地からの最初で最後の出撃になりました。
ご存知の通り、この出撃から13日後の8月15日、太平洋戦争は終結します。これにより大神基地から回天での戦死者が出ることはありませんでした。
しかし、終戦から10日後の8月25日、突撃隊少尉が自決した他、この大神基地でも空襲により数人の犠牲者を出しました。
毎年4月25日に行われる例祭には、回天作戦関係者のほか、身を挺して祖国を護ろうとした若者達を悼む人々が全国各地から集まってきます。
なぜなら、回天特攻隊員の英霊を祀るのは全国でもこの神社だけだからです。
回天神社のすぐ傍には一際目立つ大きく細長い、黒い塊。これこそが人間魚雷・回天の模型。機関部と推進部は実際に使われていた現物です。
1995年7月、杵築市の漁師が大分空港1600m沖合い地点で漁網にかかっていたものを引き上げたものなのだそうです。これが回天の一部だと判明したのは何と6年後。良く保存されていたものです。
現在は写真の様に、回天神社の象徴、平和の守り神として、この地に奉納されています。
大神基地の施設のほとんどは残念ながらもう残っていません。唯一と言っても過言ではない、残された施設は、この魚雷調整質です。
ここはどうやら回天の微調整を行うために、水面(プールの様なもの)に実際におろしていた場所の様でした。近くには回天の見取り図や、当時の写真なども展示されていたので、見学は自由なのですが…。
ここは大変危険です!
上からでは底までどれくらい深いのかも分からない水面もさることながら、子供でも容易に近づく事が出来る様になっています。一度落ちると、大人でも一人では絶対に上がれない事は写真からでも分かると思いますので、見学の際は十分にご注意下さい。
日本が考えた最終兵器、人間魚雷 回天。
若者達は何を考え、何を思い、何を守るために、その尊い命を投げ出す覚悟をしたのでしょうか?
そして、自ら命を絶とうとする、現代の若者達。そんな彼らにこそ、体感して欲しい、この戦争遺跡。回天神社。
終戦から50年以上経った2006年の夏。
私が始めて見たその兵器は、当時の殺傷兵器であり、現代の平和の象徴でした。